プユマは音楽の里 — イサオさん、陸森寶さん

この原稿は会員の山本芳美さんが、2008年に執筆したものです。2014年のHP掲載にあたって、最低限の加筆をおこないました。

 

台東は原住民音楽の発信地――陸森寶さん、林豪勲さん

 

いざ、台東へ

 台湾新幹線の開通によって、今、もっとも台北から遠いのは台湾の東海岸、とくに台東となってしまった。台東へは台北の松山空港から飛行機で50分ほど中央山脈を観ながら行く方法もあるが、花蓮から車で南下する方法もある。東海岸の観光拠点となっている花蓮から台東に行くには、ユーラシアプレートとフィリピンプレートがぶつかり合って形成された細長い谷、花東縦谷を通るか、花東海岸沿いに行く二つのルートがある。それぞれ、2、3千メートル級の山から流れでる川、滝に温泉、そして海と、豊かな動物相と植物相がおりなす絶景を楽しみながらの3時間ほどのドライブになる。ドライブ終着地の台東は、高々とした山脈が迫る花蓮と対照的な緑豊かな平地となる。海からはさわやかな風が吹き、ふんだんに陽が降り注ぎ、何かとあわただしい台北とくらべてみるとのんびりした雰囲気になる。日の光をきらきらと反射する太平洋のむこうは八重山諸島ということもあってか、街の雰囲気がどことなく石垣島に似ている。

 

フルーツ王国 台東

台東は台湾でも名だたるフルーツの産地で、西瓜(シーグヮー)、鳳梨(フォンリー、パイナップル)に香蕉(シャンジャオ、バナナ)、木瓜(ムッグヮ、パパイヤ)、芒果(マンゴゥオ、マンゴー)、芭楽(バァラ、グアバ)が市場を歩くと「さあ、どうぞ」とばかりに迫ってくる。日本人になじみがない特産の果物には、釈迦頭(シュージャートウ、閩南語:シャッキャ、英名:シュガーアップル)に蓮霧(レンムー、英名:ワックスアップル)がある。芭楽や釈迦頭、蓮霧は沖縄でも見かけるが、原種に近い小ぶりのものでめったに市場にでない。直径10センチから20センチの大ぶりな釈迦頭は、緑色の表皮はでこぼこしていて、なるほど名前は仏像の頭に似ているからつけられたのだなとわかる。充分に熟していると自然に緑の皮の間から白い果肉がのぞいてくる。崩れやすいため、輸出に向かない。熟れきった甘い果肉にかぶりつくとクリーム状のなかにもざらざらした粒が感じられるというもの。つやつやした黒い種をせっせと口から出しながら食べることになる。蓮霧はこぶし大でワックスをかけたような真っ赤な果物。皮ごとがぶりとかじるとシャリシャリとした果肉からさわやかな甘みが広がってくる。以上、台東名物を紹介したので行ったら食べて帰ること。

 

もうひとつの台東名物

もうひとつの台東の名物は、原住民族の音楽である。アミ、ブヌン、プユマ、ルカイ、漢民族、離島の蘭嶼にはヤミ(タオ)が居住する台東は、台東県の人口25万人のうち三分の一にあたる8万人が原住民族。馬蘭出身のアミの歌い手である郭英男(Difang)は、晩年その名を世界に知られるようになった。人気女性作家であった三毛の作詞によるさすらい人の心を歌ったフォークソング「橄欖樹」の作曲家の李泰祥も、郭英男と同郷のアミである。1939年(1941年説もある)生まれの李泰祥は、一世を風靡した台湾を代表する音楽家である。晩年はパーキンソン病による闘病生活をおくり、2014年1月に惜しまれながらなくなったが、台湾音楽史上初の12枚組のアルバム「中国交響世紀」に参加した四人の国際的な音楽家の一人で、3年をかけ144曲の代表的な中国民謡のスコアを完成させた。李泰祥は国立芸術専科学校の目覚ましいヴァイオリンの才能を発揮して美術印刷科から音楽科に転科し、卒業後は台北市立交響楽団、台湾電視交響楽団の主席バイオリニストや省立交響楽団の指揮をつとめた。1973年、李泰祥はアメリカのロックフェラーと国務省の奨学金で渡米し、音楽学校やオーケストラで学んだ。翌年に台湾に戻ったのち、「雨、禅、西門町」、「大神祭」、「清平楽」、「大地の歌」、「太虚吟」、「幻境三章」、などをはじめ、200曲以上の歌、20本余りの映画のサウンドトラックを作曲し、金馬賞や映画音楽の賞を得てきた。さらに数百ものCMソングに古典や現代音楽も手がけている。ちなみに、「大神祭」は「雲門舞集」(クラウド・ゲイト舞踊団)が作品「呉鳳」として公演したほか、「生民篇」も提供した。

 

世界トップのモダンダンス舞踊団「クラウド・ゲイト」

雲門舞集(以下、雲門)も、日本ではバレエやモダンダンスに興味のある人以外には知られていないので、紹介しておきたい。二泊三日の観光では触れられない現代台湾の顔で、私が教わった北京語の教科書にもその存在は取り上げられていた。北京語の先生の意見では、「雲門は、海外で台湾の面子を高めてくれているの」とのことだった。毎年台北で雲門の新作の公演がおこなわれる時期には、街じゅうを走る路線バスの側面に広告が出て、期待が高まる。砂が落ちるだけのシンプルな舞台装置で釈迦の解脱を描いた「竹夢」など難解な作品もある雲門だが、チケット予約販売の専用ラインが特設されるなど、その人気は日本の劇団四季に匹敵する。雲門があることからか、台湾ではモダンダンスを学ぶ人が多く、各大学に舞踏科が設けられていて、ワークショップも盛んである。

雲門舞集は1973年に林懐民が創立したコンテンポラリーダンスカンパニーで、70以上の作品を生み出してきた。現在は上海やマレーシアなどの団員も加わり、原住民出身ダンサーも活躍している。年に一回、台北の中正紀念堂(台湾民主紀念館と呼ばれた時期もあった)の広場に、特設舞台を設置して作品を無料で公開する。この公演はチャリティーとして行われ、原住民族の患者が多い台東の病院を寄付の対象にしたこともある。留学中に二度ほど観にいったけれど、夜風に吹かれながら舞台を眺めるのを台北の住民たちは本当に楽しんでいた。2004年の新宿での初来日公演にも足を運んだが、書のエネルギーを身体で表現する「行草」、そして「水月」のひたひたと舞台中央から流れでる水に反射するしなやかなダンサーの身体、という夢のような時間を過ごした。

 

再び音楽のはなし

さて、台東の音楽の話に戻ろう。延平郷武陵村出身のブヌンの王宏恩(Biung)はもちろん、プユマからも次々に作曲家やアーティストを輩出している。「台湾天后」(台湾トップアーティスト)の張惠妹(アーメイ)は泰安出身で、プユマとパイワンの両親がいる胡德夫は、温泉で知られる知本出身である。特に南王里一帯からは、数多くのアーティストが巣立っている。たとえば、叔父と姪の間柄である陳建年と紀曉君(サミンガ)は二人とも代表的な台湾原住民の歌い手。二人の金曲奨の受賞理由は、原住民族だからではなく、大地と共鳴するようなこの土地に根差した新しい音楽、自分の道を探しあてたアーティストであったからという。この二人が生まれ育った南王集落は、その言葉どおり、土地に根差した音楽をつくり、そして記録した人、陸森寶と林豪勲を生み出している。紀曉君は2枚目のアルバム「野火春風」のライナーノートで陸森寶について紹介している。

 

プユマ音楽の父、陸森寶

南王の「プユマ音楽の父」の陸森寶は、近年評価が急速に高まりつつある人物である。2007年11月に台北と台東でこれまでの足跡を振りかえるシンポジウムと音楽会が開かれ、子孫を含め南王プユマの歌い手が多数出演し、金曲賞受賞歌手の胡徳夫、陳建年、紀暁君(サミンガ)らも顔をそろえた。音楽会の前半は熱心な天守教(カソリック)の信者であった陸森寶が創作した聖歌を歌う記念ミサとなり、音楽の夕べとなった後半では創作歌謡の合唱となった。プユマの学者である孫大川と原住民の専門誌『山海雑誌』が中心となってその生涯と音楽的業績をまとめた本『Baliwakes : 跨時代傳唱的部落音符 : 卑南族音樂靈魂 : 陸森寶』(孫大川著、2007年、国立伝統芸術センター、記念CDつき600元)も同時期に出版された。

陸森寶(民族名BaLiwakes バリワクス)は、1910(明治43)年に台東プユマ南王に生まれ、日本名を森宝一郎といい、1946年に陸森寶と改名した。唯一の原住民学生として、1927(昭和2)年に台南師範学校に入学した。在学中はピアノに興味をもち、時間があれば練習し、台湾全師範学校のピアノコンクールで優勝するまでに腕を上げる。卒業後は台東新港の各小学校で教え、台北帝国大学言語学研究室の小川尚義と浅井惠倫がまとめた『原語による台湾高砂族伝説集』(1935年)にも、プユマの伝説の語り部としてその名をとどめている。1947年には、台東農校(現在の台東農工)の音楽と体育教師に就任した。その、教え子たちには、「モリ先生」としたわれる存在であったという。陸森寶には子どもが8名おり、四番目の子にあたる陸賢文の長男が陳建年。つまり陳建年にとっては、陸森寶は祖父にあたる。

陸森寶は1988年に逝去するまで、プユマ語、日本語、北京語の歌を30曲、そして天守教会の聖歌を20曲から30曲生み出し、現在もその多くが南王で歌い継がれている。南王集落の活動に積極的に参加し、集落の人々と過ごした悲喜こもごもの出来事が曲の原泉となった。陸森寶がつくった曲で、CDとして入手しやすいのは以下のもの。「美麗的稻穗」(胡徳夫『匆匆』、『Het Eyland Formosa』、『Voice of silence』、紀暁君『聖民歌~太陽、風、草原の歌』、『Voice of Puyuma(日本版)』に収録)、「散歩歌」と「蘭嶼之戀」、「上主垂憐」、「懐念年祭」(紀暁君『野火春風』に収録)である。プユマが現在のような音楽の里になったのは、陸森寶の働きが非常に大きかったといわれる。

 

「美麗的稻穗」と金門島の原住民族兵士

美しいプユマ語の響きの反面、重い意味のある陸森寶の代表作は、1958年に起きた金門島での砲撃戦を背景にした「美麗的稻穗」(「うるわしき稲穂」)。台湾の西の離島、金門島は1956年より軍政が敷かれ、2.1キロしか離れていない中国大陸側の人民解放軍とにらみ合う最前線となる。1958年8月23日にはじまり10月5日に終結した砲撃戦は、中国大陸では金門砲戦、台湾では八二三砲戦と称す。勃発した8月23日には、金門島に5万7千発の砲弾が撃ち込まれ、440名の死者を出した。終結するまで47万発の砲弾が撃ち込まれ、世界史上最高の着弾密度となった。金門住民はたくましくも、特別硬質な砲弾を鋳造しなおして中華包丁やナイフなどにし、現在でも土産として売っている。1979年に最後の交戦がおこなわれるまで、1日おきに砲撃が交わされるような緊張状態が続いた。1992年にようやく軍政が解除されて、金門島は馬祖島などとともに中国大陸との通信、通航、通商の直接的往来をすすめる「三通政策」の拠点となっている。

1956年以来、台湾の男性には20歳になると大学在学中ならば2年、通常は3年の兵役が課されていた。現在は19歳に引き下げられ、短縮されて1年2カ月となっている。新兵は新竹で訓練を受け、その後抽選によって配属地が決められる。もっとも危険がともない、絶えず緊張が強いられるのは最前線の金門・馬祖などの「外島」で、原住民族の若者も例外なく送り込まれた。

プユマ語で歌詞の書かれた「美麗的稻穗」は、「今年は豊作/郷里の稲穂も刈りいれだろうか/豊作の歌声が前線の金馬にいる家族に届きますように/郷里に植えた木は/すでに大木に育っている/この大木で船艦をつくり/金馬の兄弟を迎えにいきたい」と歌われる。この曲を胡徳夫はピアノで弾きながら、深くしぶい声でブルースとして歌う。台湾の歌謡曲には日本の唱歌に加え、演歌やポップスなどの影響が指摘されているが、陸森寶は信仰を通じてアメリカの音楽、特にブルースに触れていたのではないかといわれている。この曲はまさに本来の意味のブルースであり、兵士たちと残された家族や恋人の魂の叫びなのだ。

また、陸森寶遺作となった「懐念年祭」は、原住民たちが故郷を遠く離れて働くさまが歌われる。「家から大変遠い場所で働いていて/父母や家族、友だちのもとにどうしても帰ることができない/だが、永遠に忘れることができないのは/家族たちと過ごしたあの温かい日々/母が私のために編んだ花輪を頭にかざり/華やかに着飾って踊りの輪に加わりたい」とプユマ語で歌われる。プユマの祭で人々が頭に飾る花輪が織り込まれているのだが、まさに同じような境遇にある原住民族の人々の心を歌っているのだ。

 

イサオ、こと、林豪勲さん

次に紹介したいのは、林豪勲。呼びなれた「イサオさん」書くほうがしっくりする。台湾に留学していた私は、2001年ごろに台湾と沖縄などでジャーナリストとして活躍する柳本通彦氏からイサオさんと姉の林清美さんが台北に来ている、と呼ばれてから親しくさせていただくようになった。イサオさんに関する話は、長年取材をし続けた柳本さんからいろいろうかがい、記事としても読ましていただいてここに記している。

2006年に57歳で亡くなったイサオさんは『懐念年祭~一沙鷗的音楽創作世界』と『ISAO A Distant Legend』のCD 2枚を残している。この2枚のCDは、創作した曲も含め、南王を中心としパイワンやルカイ、アミなどの伝統的な歌謡をパソコンで交響曲にアレンジしている。オジにあたる陸森寶の「懐念年祭」もCDに収録されている。これらの曲は、パソコンに接続したパットを口でくわえた箸で操作して音を打ち込み、ひとつひとつ操作して生み出したものである。原住民族の語学テキストを執筆し、プユマ語をローマ字化して文字をひとつひとつ打ち込んでいった。このほかにもプユマの各家族の系図を記録したり、古老の歌の録音を採譜したりし、『プユマ神話集』や『プユマ語事典』もまとめあげた。

1949年に南王で生まれ、そこで育ったイサオさんは27歳のころには台北で働いていたが、お母さんのために家を建てるために戻り、家の建設工事をしていた。何かの拍子で2階からレンガの山の上に落ち、気がついたときには脊椎を損傷して首から下が動かない身体になっていたという。絶望の日々が続いたが、今から十数年前に友人が中古のパソコンを届けてくれたことで人生が変わる。パソコンの操作を覚え、インターネットを駆使して情報を得て、次々に集落に残された文化を記録する仕事に打ち込んでいった。沖縄をふくめ各地の舞台で音楽を披露して称賛を得て、ひたむきに口でパソコンを操る姿を人々は「啄木鳥人」(キツツキ人)と呼んだのである。ちなみに、南王では現在でも日本語を操る人が多く、イサオさんの原住民名は「イサオ」である。

 

高山舞集と林清美さん

イサオさんの活動を支え続けたのは姉の清美さんとそのご家族、南王の人々である。イサオさんの事故の現場となったその家に現在も住み、10人キョウダイの一番末の弟であるイサオさんに、姉として、そして母のように接してきた。清美さん自身も、地元で名門といわれた小学校の教員で、台湾で体操大会がおこなわれる際には壇上でかけ声をかけながら見本を見せ、現在もそのりりしい姿をよく覚えている人がいる。林清美さんは小学校を早期退職し、母とイサオさんの世話をしながら1982年に南王で舞踏団「高山舞集」を結成し台湾を巡演して、原住民族の踊りと文化を伝えていった。集落に戻れば、放課後帰りの子どもたちを家に集め、踊りと歌、プユマ語を教えた。同時に、ベッドに横たわっているイサオさんのために奔走し、古老の話や歌をカセットテープに記録した。パソコンがよくわかる親戚の女の子は、イサオさんの作業を手伝った。南王の皆さんは事あるごとに、イサオさんのもとに集まり、酒を飲んで陽気に歌った。

2005年11月、イサオさんは長年の夢を叶え、毎日ベッドの脇の窓から眺めていた、きらきらと光りを反射する太平洋をめぐる旅についに乗り出すことになった。ある会社が公募した「あなたの夢叶えます」という企画にイサオさんの夢が採用されたのである。オーストラリアから南太平洋の島々を船で訪ね、日本の横浜港に上陸し、山梨、東京、京都、香川を車で訪ねた後、大阪から船で那覇と石垣に立ち寄り、台湾に戻る1カ月にわたる一筆書きの旅をイサオさんは計画し、あれこれと手配した。この旅のとき、私がいただいたお土産は、プユマの工芸家がつくったトンボ玉のネックレスで、空色の細長い玉には「Y・Y」と私のイニシャルまで入っていた。会うことが決まっていた友人に対しては、すべてこのように細やかな心遣いをしたのだが、このような準備がイサオさんを旅の前から疲れさせていたらしい。

ところが、イサオさん一行が講演する山梨の都留文科大学に着いたときには、イサオさん自身は旅の疲れから高熱を出してぐったりしていた。さらに、悪いことにその年最大の寒波が東京から東海一帯を襲ったのである。雪が珍しいイサオさん一行4名は喜んだけれど、屋根が押しつぶされて何人ものお年寄りが亡くなった積雪を台風に例えて、ようやくその深刻さをわかってもらった。激しい雪の降る高速道路を車に乗って移動すること自体が危険であるし、イサオさんは一時間に一度は体位を変えねばならないという。私はかつて雪が激しく降るなかの高速道路上の事故によりバスに4時間以上閉じ込められた経験があり、万が一渋滞か事故かで高速道路で足止めとなった場合、即、命にかかわることが予想できた。少々身体を休めたとはいえ肺炎を起こしかけているイサオさんに、「もっと季節が良くなったら、また日本に来ましょうよ。今度は春に桜とともに北上するように、今回行けなかった沖縄から東京に来てくださいよ」と話した。その場にいた台湾原住民族との交流会の会員や慈済公徳会のスタッフの人々も思い思いに声をかけた。突然、清美さんが口を開いた。「わかった。ここまで動けないイサオが私たちを連れてきた。今度は私たちがイサオを連れて帰る」。すると首から下の自由がきかないイサオさんは、「いやだ。旅が、この船の旅が、途切れてしまうよ」と言いながら身をよじって全身で抵抗した。皆、イサオさんの旅への思いに息をのんだのである。

 

イサオさんとの一日

2006年3月31日から4月1日にかけて、私は台東のイサオさん宅を訪ねた。イサオさんの旅を断ち切ってしまった後、イサオさんはどう過ごしているのかが気になっていた。イサオさんは気をつかって、どこかに観光に行くように言ってくれたのだが、ゆっくり話す機会がなかなかないからと断り、ベッドのそばで話をうかがった。話はいつしか、脊椎を損傷することになった事故の話になった。事故の前、漢民族のある女性がイサオさんのことを好きだと言ったのだという。イサオさんは差別を考えて躊躇したのだが、女性と結婚の約束をした直後に事故にあってしまった。女性からは「それでも一緒にいたい」と言われたのだが、自分の身体を考えて婚約を破棄した。しばらく経ってから、女性から一通の手紙が来た。「別の人と結婚したけれど幸せでない。やっぱり、あなたのところにいたい」。だけど、イサオさんは返事を書かなかった。

「もしも、僕が結婚して子どもをもって普通に家庭を築いていたら、子どもにご飯を食べさせなきゃとか、日々の仕事のこととか、暮らしのことをいろいろ考えなければならなかっただろう。こんな文化を記録する仕事はできなかったと思う。だから、事故にあったことはそれはそれでよかったと思うよ」と私と別れ際にイサオさんは言った。異文化を調べて記録する仕事をしている私が、何かの障がいを負った時、果たして私はできることを探せるだろうか。イサオさんのように文化の記録が明日への希望につながるなら、私は本当に幸せな仕事を探し当てたのだけど。

私が日本に帰国した直後の4月15日、イサオさんは急性肺炎と敗血症が合併したことにより突然あの世へいってしまったとの知らせが飛び込んできた。ひょっとしたら、イサオさんは何かの予感があってあの冒険旅行にこだわったのではないかと思い、しばらく呆然とした。気持ちの整理をつけるために私は4月22日の音楽葬に参列した。日本からの参列者6名と集落や台湾各地から駆けつけた人々が泣きながら歌い、別れを惜しんだ。目が腫れるまで泣きあかした清美さんは、「イサオが灰になるところなんて見たくない」と火葬場にはついていかなかった。今、太平洋が見えるお墓にイサオさんは眠っている。

 

台南・国立台湾文学館に紹介された現代詩人、林志興

陳建年とイトコ同士で、林清美さんと林豪勲さんの甥にあたる南王出身の林志興(リン・ズゥーシン agilasay)が、イサオさんのお葬式の司会にあたった。彼は、台湾大学考古系博士班(考古学科博士課程)で学んだ後、現在は台東の国立台湾史前文化博物館に勤める研究者である。陳建年に金曲奨の「最優秀作曲賞」をもたらした「神話」を作詞するなど、作詞家や文学者の顔をもっている。陳建年のファーストアルバム『海洋』に収録されている「穿上彩虹衣」、「走活伝統」、「郷愁」、「我們是同胞」をはじめとして二人は何曲も生み出してきた。「山地人也好 平地人也好 我們都是這裡的人民 先住民也好 後住民也好 我們都是這裡的住民」(山地人もいいじゃないか。平地人もいいじゃないか。私たちは皆ここの人間だ。先住民もいいじゃないか。後からきた住民もいいじゃないか。私たちは皆ここの住民だ)と語りかける「我們是同胞」を、陳水扁総統の二度目の就任式でプユマの人々と陳健年は歌ってみせた。インタビュー資料によれば、「歌のうち半分は私の生活経験を、もう半分は陳建年の思いを歌ったものです」との話で、現代台湾とプユマの伝統を巧みに織り込んだ歌詞は知的で味わい深い。

陸森寶を記念する音楽会でも林志興は司会をつとめたが、聴きに行った友人の話では、「陸先生の顔を知らない人は、僕の顔を見てください」と言ったとか。台東空港から木々のトンネルを抜けて南王のお二人の家を訪れるたびに、林志興にもお会いする機会がある。黒ぶち眼鏡をかけ、がっしりした体型の陽気な彼は宴会になるとすばらしいノドを披露することもしばしばで、南王にはいったいどのくらい隠れたる音楽の才能が眠っているのだろうと思う。

 

プユマ歌謡の特徴とは

プユマ歌謡の特徴は、同じ意味の言葉を、古語と現代語で繰り返して歌うそうである。現代語で繰り返すことにより意味が伝わりやすくし、二種の言葉が交互に歌われることで美しい音の響きを生み出す。南王では結婚や入隊、仕事や勉強のための上京、不幸などがあると、集落の全員がいっしょに歌うことで祝福や慰めを伝え合う。今も南王の少年と青年たちは年長者の厳しい指導を受けながら青年集会所や野営地に集い、プユマの大人になるための訓練を受ける。年越しの夜、青年たちは集落の一軒一軒を訪ね、大きな声で歌をうたい各家に新年を告げる。新しい年の朝には、集落の60歳以上の長老たちは前年に亡くなった人の家を訪問し、おくやみの歌を滔々と歌う。2007年1月1日の朝、20名以上の長老たちは、いまだ悲しみにひたる林清美さんの家を訪ねて「おキヨ、もう泣くな」と言いながら、特に長く歌をうたった。陸森寶や林豪勲の遺産と精神は、今も集落に脈々と伝えられているのだ。

 

 

もっと知りたかったら

「傾聴台湾的聲音」

edu.ocac.gov.tw/culture/music/CHINESE/

樂壇風雲人物コーナーで 、陸森寶 (その生涯を紹介するほか「卑南山」、「美麗的稲穂」を聴くことができる。)

樂壇風雲人物コーナーで、李泰祥(北京語 その生涯を紹介するほか、「橄欖樹」を聴くことができる。)

 

「台東県政府原住民行政局 原住民之光」(サイトでは工芸や祭事、イベントの告知のほか、台東県が輩出した原住民の紹介がされている)

www.taitung.gov.tw/Aborigine/cp.aspx?n=5ABC82753ADFFA0D&themesite=BAA86C8F16BADDE6

 

「生命を謳歌する勇者――李泰祥」(雑誌『光華』ウェブ版2004年6月記事)、「注目される先住民の歌声陳建年と紀暁君」(同サイト2000年9月記事)

www.taiwan-panorama.com/jp/