台湾の近現代史を反映させたタトゥー映画と原住民族

(2016年1月31日記) 山本芳美

◆台湾ニューシネマとその時代

 映画の紹介に入る前に、これらの映画が背景とする台湾映画史に簡単に触れておく。

台湾映画は、一九八〇年代から九〇年代にかけてニューシネマといわれる時代にあった。例えば、ホウ・シャオシェン(侯 孝賢)の『坊やの人形』(一九八三年)、『冬冬の夏休み』(一九八四年)、『非情城市』(一九八九年)、アン・リー(李安)の『ウェディングバンケット』(一九九三年)、『恋人たちの食卓』(一九九四年)などの作品がある。ほか、エドワード・ヤン(楊 徳昌)、ワン・トン(王童)、シャオイェ(小野)、ワン・レン(萬仁)など現在も活躍する監督が、台湾の人々の生活や哀感に基づいた映画を生み出していった。なかでも、ホウ・シャウシェンは台湾を代表する映像作家となり、アン・リーは後にアメリカに渡って『ブロークバック・マウンテン』(二〇〇六年)と『ライフ・オブ・パイ』(二〇一三年)で二回のアカデミー監督賞に輝く世界的な監督となった。

 その後、ニューシネマの波は徐々に去り、政府の振興策の下、台湾での映画製作は全体として芸術至上主義に走った。評論家受けはよいが観客動員にはつながらない作品が製作されていた。私は二〇〇〇年から〇三年はじめまで台湾に留学し、三カ月ほど映画館が階下にあるマンションに下宿していたこともあったが、ハリウッド、香港、日本、そして韓国製映画が当時の劇場公開作品の大半を占めていた。映画館に行くことは娯楽として定着していたが、ケーブルテレビ網が発達していることもあり、劇場に観客を呼び戻すまでのパワーを持った台湾映画はなかったことを記億している。

 

◆『Tattoo――刺青』

 様相が変わったのが、ゼロ年代後半である。二〇〇七年に、『Tattoo――刺青』と題するゼロ・チョウ(周 美玲)監督による異色作が公開された。『Tattoo――刺青』は、ベルリン映画祭でテディベア賞を獲ったほか、台湾と香港で良好な興行成績を収めた。日本では、同年に開催された第一六回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映されて、一般公開もされている。

ストーリーは、女子高生の小緑と彫師である竹子のラブストーリーを軸に進行する。竹子は台日のダブルで、父親が刺青の技術に優れている日本に修業に行き、日本人の母に出会ったという設定だ。実際、台湾と日本の彫師たちの交流は一九七〇年代からあり、竹子の人物造形はそれほど奇異ではない。二〇〇〇年代に交流は緊密になり、タトゥースタジオ訪問や各地でおこなわれるコンベンションに相互に招待している状態である。竹子のタトゥーは、台湾の人々の好みに合わせて薄く描かれており、それもリアリティーがある。

一九九九年の台湾中部大地震の際に竹子は心の傷を負い、曼珠沙華の花を左腕上腕に彫ることで感情を封じ込めた。恋人に会いに行ったあいだに、地震により父を亡くし、弟は知的障害を負ってしまったのだ。電脳世界でセクシーな下着姿をさらして収入を得る小緑との二度目の恋で、竹子は過去の傷と向き合うことになる。女性同士の恋愛を描いたこの映画は、「九二一大地震」(注 地震発生は一九九九年九月二一日だったため、「九二一」と呼ばれる)が台湾社会全体に与えた打撃を丁寧に掘り起こした作品であったことも、観客に支持された理由だっただろう。

 

◆『海角七号』と『セデック・バレ』

 二〇〇八年から、台湾映画の快進撃がはじまる。この年、一九六九年生まれのウェイ・ダーシェン(魏徳聖)監督による『海角七号』が公開された。『海角七号』は、都会で音楽活動をしていた若者アカ(阿嘉)が、夢破れて台湾最南の街、屏東県の恒春に戻ってくるところから始まる。故郷に向けてスクーターを走らせるアカの右腕内側には、かっこ良さを求めてか、トライバルタトゥーが見える。台湾南部の屏東を舞台に繰り広げられるルカイ人の親子、客家人、台湾人、日本人が織りなす群像劇と、時空をこえた二つの恋が爽やかな印象を残す映画だ。主演はアミ人のシンガーソングライターのファン・イーチェン(范逸臣)に田中千絵。映画は大ヒットし、洋画をふくめた台湾の映画興行成績歴代の第二位となる(一位は一九九七年公開の『タイタニック』)。

 このヒットを受けて、ウェイ・ダーシェン監督は長年温めてきた企画、「霧社事件」の映画化に踏み切った。霧社事件とは、一九三〇(昭和五)年にセデック人が台湾中部の霧社で起こした事件である。蜂起したセデック人により、駐在所と運動会をおこなっていた公学校で日本人が一三二名、たまたま和服を着て運動会を見物していた漢民族が二名殺された。明らかに日本人を対象にした反乱であり、日本の植民地でも先住民族による最大の抗日事件となった。台湾では一九九〇年に邱若龍が事件を調査してマンガとして描き、映画もこのマンガを原作とし、美術監督を邱若龍がつとめた。日本では、現代書館から一九九三年に翻訳版のマンガ『霧社事件――台湾先住民(タイヤル族)、日本軍への魂の闘い』が出版されている。

 二〇一一年、『セデック・バレ』は、第一部「太陽旗」が台湾で公開されたのち、約半月後に第二部「虹の橋」が公開された。総上映時間は四時間半以上におよぶ大作となった。映画『セデック・バレ』は、事件の主導者といわれるモーナ・ルダオの若き日からはじまる。壮年期にいたったモーナが周囲の若者たちに押されるように決起し、日本の制圧軍に追い詰められて自決するまでを描く。『セデック・バレ』で、ウェイ監督はセデック人役は原住民族自身が演じることにこだわった。主演のモーナ・ルダオは若き日をセデック人俳優のダー・ジー(大慶)が演じた。壮年時のモーナを演じたのは、監督がスカウトしたタイヤル人の現役牧師であるリン・チンタイ(林慶台)だった。

公開当時、「台湾の歴史がスぺクタクル映画になるとは」、と台湾の人々は興奮し、一大ブームとなった。映画のタイトル『セデック・バレ』(賽德克·巴萊)は、「真正な人」という意味で、しばらく何かをほめる時には何でも「○○・バレ」と表現するのが流行した(「巴萊」の正確な北京語の発音は、「バライ」が近い)。

 セデック人は、男性は額と顎にそれぞれ一筋のイレズミを入れ、そして女性は額に一筋から五筋程度のイレズミと両頬に広がる網目で構成されるイレズミをほどこしていた。男女それぞれにイレズミを入れるには資格があり、男性の条件は首狩りや狩猟を成功させることであった。女性の場合は織物などに習熟すると、女性はイレズミを入れることができた。さらに、セデックのイレズミは、他界観にも関係していた。セデック人は死ぬと虹の橋を渡るものと考えていた。虹の橋で待つ先祖は、イレズミがある子孫のみを「真正な人」として受け入れるとの信仰があった。つまり、セデックの人々にとって、イレズミは民族的な誇りであり、正しく生きてきた証であった。誰かが年頃になり資格を得たのにイレズミをしないと、社会秩序を乱してしまう。自分が適切な時期にイレズミをしなければ、正しい人間にはなれない。誰かがケガをしたり、集落全体に疫病などの形で災いが降りかかるとの観念を強く有していたのである。

映画には、蜂起後に山にこもったセデック男性や少年がイレズミを入れるシーンが挿入されているが、実際にそうだったかは定かではない。日本の統治が台湾原住民族の居住地域におよぶにつれて、原住民族のさまざまな習慣が禁止され干渉を受けた。治安や衛生、教育を理由にあげての干渉であったが、セデック人は首狩りやイレズミが禁じられ、当時すでに多くの若者たちがイレズミを入れていなかったことは確かだ。さらに、皇民化が進行する台湾では、一九一〇年代から「日本人らしくあるために」と、セデックほか、タイヤル、タロコ、サイシャットなど顔にイレズミを入れる習慣のあった民族を対象にイレズミの切除や薬品で焼きとる施術が進められた。

『セデック・バレ』は、台湾でこれまでなかった規模のメディアミックスとブロックバスター映画だったこともあって、賛否両論を巻き起こしながら大ヒットを記録した。公開当時の宣伝方法も、絵にかいたようなメディアミックスであった。香港出身の映画でハリウッドでも活躍した監督、ジョン・ウー(呉宇森)がプロデューサーについたことも、台湾内での新聞、ラジオ、雑誌などの各種メディア、博物館やデパートでの特別展、関連書籍の出版などのメディアミックス商法に拍車がかかったかもしれない。

この映画に関わった台湾の人々の熱意に感応したか、日本でも映画評論家の町山智浩やタレントの水道橋博士ほか、雑誌『映画秘宝』のライター陣を中心として高い評価を得た。思いこみや誤読気味の映画評もあったが、映画自体が歴史的背景について細かい説明をしていないので仕方がなかった(監督自身は、公開直後に台湾の国立政治大学でおこなわれたティーチ・インで「映画をきっかけに、台湾史を自分で勉強してほしい」と発言している)。

 

◆『KANO』と『餘生――セデック・バレの真実』

ウェイ・ダーシェン監督は『セデック・バレ』以降は、台湾映画界の若手を育てるためにプロデューサー業にまわることを宣言した。その初プロデュース作は『KANO』である。野球が主要なテーマとなる『KANO』では、野球経験があることもあって、『セデック・バレ』に出演したセデック人俳優のマー・ジーシヤン(馬志翔)が監督となった。

『KANO』は、台湾西部の地方都市である嘉義にあった「嘉義農林学校」の生徒たちが一九三一(昭和六)年に甲子園球場で催された「第一七回全国中等学校優勝野球大会」に出場し、準優勝を遂げた実話をベースにした映画である。『KANO』は『セデック・バレ』製作時に同時代の新聞をリサーチした際に発掘されたストーリーであるという。時代的にみれば、『セデック・バレ』とほぼ同時進行でおこっていた出来事となる。山中でおこった霧社事件と甲子園のラジオ中継に沸く平地の生活との差にめまいをおこしそうだが、この多層性が台湾史を理解する際のポイントでもある。

メインストーリーは、近藤兵太郎監督の熱血指導のもと、漢民族、日本人、台湾原住民族の選手たちが結束し、弱小チームから甲子園優勝を狙うチームにまで成長するのがメインストーリーである。感動させる青春映画だが、試合展開や監督・選手の発言とも、当時の報道に基づいており試合に関しては脚色をほとんど加えていないそうである。原住民族の選手は、植民統治期に早期より日本教育を受けていたプユマ人やアミ人であった。

プユマやアミにはイレズミをする習慣がないこともあり、本作はイレズミとは関係がないように見える。しかし、嘉義農林学校と甲子園の準々決勝で対戦して敗れた札幌商業の錠者博美投手が、甲子園出場の一四年後、出征途中に台湾に立ち寄る場面に注目してほしい。イレズミのあるセデック男性が、軍夫として出征しようと汽車の座席に座っている姿がみえる。ただし、錠者博美氏は実際には中国大陸に出征し、敗戦後にシベリアに抑留されてイルクーツク近郊の収容所で亡くなっており、この場面はフィクションである。

『セデック・バレ』は、さらに別の映画を生み出した。それがドキュメンタリー映画の『餘生――セデック・バレの真実』(湯湘竹監督、二〇一四年)である。『セデック・バレ』のスタッフが、映画製作の過程で資料にあたるとともに、事件に関係したセデック人の子孫や日本人警部の佐塚愛祐の子孫を取材して製作した約二時間半のドキュメンタリーである。

日本において多数の「霧社事件」関連書は、日本人の視点から、植民地時代に日本語を学んでいる人々への聞き書きや日本語で残された資料で書かれている。映画に登場するモーナ・ルダオのただ一人生き残った娘マホン・モナは、主にセデック語しか話せなかったため、彼女の声は外に伝わりにくかった人である。マホンの名を継いだ孫娘に両親が語るマホン・モナの姿は、台湾の角度から見た霧社事件像を浮き彫りにする。また、地域の歴史や人文地理を研究し、村おこしにつなげる台湾で文史工作者と呼ばれる人や歴史学者などもインタビューに応じていて、多面的な角度から事件に迫っている。祖先誕生の地と伝えられる「プスクニ」を訪ねる三人のセデック男性は、さまざまな外来者と接触し、影響をその都度受けてきた原住民族文化が今後も変化しながらも脈々と受け継がれていく象徴となっている。

つまり、台湾史の時系列順で並べれば、『セデック・バレ』、『KANO』、『餘生――セデック・バレの真実』、『刺青』、『海角七号』と映画をたどることで、台湾の近現代史、台湾の人々と日本人の関係、イレズミとその意味の変化が見えてくるのだ。

 

◆台湾映画――新たなステージへ

もともと台湾では九〇年代ごろから、地域文化や地域史を掘り起こすドキュメンタリー映画が盛んに製作されていた。呉乙峰監督のドキュメンタリー『生命』(いのち)、原住民族の視点から復興策の矛盾をとらえた『部落の声』、『三叉坑』などを生み出してきたドキュメンタリー集団「全景」の活動は、台湾中部大地震がもたらした心の傷に寄りそう作品を生み出してきた。特に、『生命』は日本でも公開され、大きな反響を起こした。

現在、台湾の劇映画は互いに刺激しつつ、多彩な映画が産みだされている状況になっている。『刺青』が公開された二〇〇七年には、台湾を自転車で一周するブームを引き起こしたロードムービー『練習曲』が公開され、二〇〇七年の興行成績一位となる。その後も、日本領台初期の客家人による抗日闘争を描く映画『一八九五』(二〇〇八年)、一九八〇年代の台北・モンガ(古くは艋舺と称された萬華)の街に生きるやくざ社会の若者たちが主人公の『モンガに散る』(二〇一〇年)、地方都市である彰化の高校生たちの成長を追う青春映画『あの頃、君を追いかけた』(二〇一一年)、見事な空撮を通して環境問題を訴える『天空からの招待状』(二〇一三年)など、さまざまな面から台湾の姿に切りこむ映画が製作されている。

二〇一一年に製作された『不一様的月光 尋找沙韻』(さまざまな月光:サヨンを探して)もユニークだ。日本の皇民化政策期に製作された李香蘭(山口淑子)の主演映画『サヨンの鐘』をモチーフとし、宜蘭県南澳タイヤル人集落を舞台にしたモキュメンタリー映画である。まず、一九三八年にサヨンという少女が鉄砲水で亡くなった事故を下敷きに、『サヨンの鐘』とのタイトルで西條八十作詞、古賀政男作曲の歌が作られた。この曲は渡辺はま子が歌い、ヒットした。この曲のヒットを受けて、一九四三年に松竹、台湾総督府、満洲映画協会により映画が製作された。清水宏が監督した映画『サヨンの鐘』では、タイヤルのサヨンは出征する教師を慕って荷物を運び、鉄砲水に流されて亡くなった少女として描かれ。映画撮影当時は、サヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられていたという。現在からみれば「愛国映画」、「戦意高揚映画」であるが、戦前の台湾を舞台とした映画、原住民族を取り上げた映画として今でもよく言及される作品である。

『不一様的月光』では、当地出身のタイヤル女性監督の陳潔瑤(民族名Laha Mebo)が、集落に住む人々に主要な役を演じてもらった映画である。自殺か事故かわからない形でふいに亡くなったタイヤル男性、残された妻、昔から妻を想っていた男が織りなすドラマと、植民地時代に日本人によって移転される前の旧集落に行きたいと訴えて山に入る老人とその孫たちの姿が描かれる。

特に面白いのが本作のラスト。集落の人々にカメラを向け、「サヨンを知っている?」と問い、一人一人が答える姿を映し出す場面が秀逸だ。「教師と恋愛していた」、「たまたま不注意で流されただけ」、「自分で身を投げたってさ」、「サヨン? 知らないねぇ」など、人々の間で伝説化しているサヨンの姿が語られ、伝えられる内容も断片的であることがわかってくる。

植民地としていた台湾から日本人が去ったのは一九四五(昭和二〇)年で、二〇一五年で七〇年を迎える。日本人は、台湾の人々が日本時代と日本人に一貫して関心をもって生きてきたと信じている人もいるが、台湾の人々自身も自分たちの時間、自分たちの歴史を生きてきたことが染み入るように理解できる。

映画のテーマが広がり、主題の提示も多彩になり、業界の担い手も多様化した台湾映画界は、今、活気づいている。  以上